【書評】「エフェクチュエーション」で学ぶ起業と未来創造の本質【要約】

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【書評】「エフェクチュエーション」で学ぶ起業と未来創造の本質【要約】

こんにちは、外資系セールスから転職→現在はベンチャー企業にて起業家を支援している冨田到(@ItaruTomita9779)です。

最近はユニコーン企業を増やそうとか、オープンイノベーションという言葉が声高に叫ばれていますよね。

しかし、起業家や新規事業を担う人間が存在しなければ、ユニコーンやイノベーションは難しいでしょう。

日本自体も、高度経済成長のように「モノを作れば売れる時代」は終わりましたので、起業家・新規事業をいかに育てるかは喫緊の課題です。

今回は、「熟達した起業家に共通した原則」と、「起業家の行動様式から発見された世界の見方」を学べる本をご紹介します。

その本とは、サラス・サラスバシーの「エフェクチュエーション 市場創造の実効理論」です。

今回はこちらの本を書評・要約・感想していきます。

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内容紹介

ノーベル経済学者ハーバート・サイモン教授晩年の弟子による注目の起業家研究。経験豊かな起業家の意思決定を分析し、その「論理」「プロセス」「5つの原則」を提示。

内容(「BOOK」データベースより)

エフェクチュエーションの概念は、「原因と結果」の性質について、社会科学において長らく持たれていた信念に対しての挑戦であり、社会現象についての新しい洞察を産み出す源泉でもある。この概念は特に、最善を尽しても、「原因と結果」の関係を理解することが全くできないような状況におかれている起業家的行動の分析に適したものとなっている。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

サラスバシー,サラス
インド生まれ。ボンベイ大学卒(統計学)、カーネギーメロン大学、Ph.D(情報システムとアントレプレナーシップ)。1978年ノーベル経済学受賞者であるハーバート・サイモン教授の最晩年の弟子にあたり、熟達した起業家の意思決定についての研究で博士論文を執筆した。現在、バージニア大学ビジネススクール教授(戦略・倫理・アントレプレナーシップ部門)。MBAプログラムのみならず、博士課程プログラムでは、バージニア大学以外にも、デンマーク、インド、クロアチア、南アフリカでも指導している

加護野/忠男
甲南大学特別客員教授、神戸大学経営学大学院名誉教授。1947年大阪に生まれる。1970年神戸大学経営学部卒業。1975年同大学大学院経営学研究科博士課程修了。神戸大学経営学部講師、助教授を経て、1988年教授に就任。同学部長などを経て2011年より現職。経営学博士。専攻は、経営戦略論、経営組織論。企業統治論

高瀬/進
山口大学大学院技術経営研究科准教授(特命)。アジア・イノベーションセンター。1970年東京に生まれる。1994年神戸大学工学部システム工学科卒業、2013年同大学大学院経営学研究科博士課程修了。博士(経営学)。専攻は、アントレプレナーシップ、ハイテク・大学発ベンチャー。在学中から黎明期のラクロスの普及、大学運営支援会社のスタートアップを手掛ける。現在は、レスキューロボットの事業化のアクションリサーチの他、京都大学デザインスクールFBL/PBL「ロボットと社会のデザイン」「ロボットとベンチャーのデザイン」等を担当

吉田/満梨
立命館大学経営学部准教授。1980年岩手に生まれる。2003年立命館大学国際関係学部卒業、2009年神戸大学大学院経営学研究科博士課程修了。首都大学東京都市教養学部経営学系助教を経て、2010年より現職。博士(商学)。専攻は、マーケティング論、製品開発論、特に、新たな製品市場の形成プロセスに関心を持つ(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

動画でも解説しました!

科学的分析手法の限界と予測不可能性

エフェクチュエーションの説明をする前に、エフェクチュエーションが必要な背景をまずは前提・共通認識として、把握してみましょう。

(私が社会科学、国際政治や戦争・平和学専攻だったので、フレームワークがそっちよりなのは悪しからずです。)

エフェクチュエーションのみ知りたいという方は、飛ばして下さい。

科学的分析手法に絶大な信頼があった近代という時代

歴史の話になって恐縮ですが、近代になってから、航海の技術の発展によってグローバリゼーション(地球規模化)が起こりました。

その当時のグローバリゼーションによって、地球という箱庭の中では、地域間での交流がより活性化し、人類間(”歴史”には登場しない人類もいるので、ここでは特に列強諸国)の競争意識を高める結果となりました。

地域は、それぞれ国として発展し、国家のリーダーは、自らの繁栄の獲得のために、他の地域に対抗・戦争に勝つために、国民国家(Nation State)を作り上げたわけです。

ちなみに、この国民国家は、地域にいる部族や民族を無理やり、国家という概念(実際には存在しない、想像の共同体)で統一し、国家内の人間の結束を図ることによって、他の地域への競争力を高めたのです。

その当時の競争力は純粋な武力であり、武力は科学技術を背景として、近代以後は発展していました。

ダイナマイトに始まり、原子爆弾や枯葉剤、色々な化学兵器が第二次世界大戦までに、科学技術の発展とともに生み出されてきました。

科学技術を磨けば、絶大な軍事力が国家にもたらされた結果もあって、科学技術に対する信奉が非常に高まっていたのです。

科学技術は、科学(要素を分解し、観察し、考察し、再現する)という分析手法を使いますので、科学的な分析手法も、人間の世界の見方に大きな影響を及ぼしたのは言うまでもありません。

科学的に分析すれば、我々の世界を隅から隅まで、理解しコントロールできるという傲慢が、特に西洋を中心とした社会の中に根付いていったのかもしれません。

しかし、この科学的分析手法が、近代から現代に移るに連れ、なぜか噛み合わなくなってきたのです。

原因と結果を複雑化してきた予測不可能性の高い現代

象徴的な事件で言うと、下記のような事件が起こっていきます。

  • 東西冷戦:”科学技術”に裏打ちされた核のパワーが問題を解決し得ない
  • 文化大革命:西洋的価値観(反動的学術権威・科学思想)である資本主義システムへの反対運動が起こった。(実際には権力闘争に市民が利用されただけ、かも。)
  • 中東戦争とアメリカ同時多発テロ:国家間戦争が国家対民族戦争になり、今までの科学に裏打ちされた軍事力では解決できない
  • 世界や日本での経済的な危機(高度経済成長の崩壊や、アジア通貨危機、リーマンショックなど):経済を発展させ、人間の富を増大させてきた金融・製造業の限界(これも科学がバックにある。)
  • 原子力発電所の事故(スリーマイル、チェルノブイリ、福島の3.11):エネルギーを無限に生み出す科学の権威である原子力への過信と、科学で(自然含む)コントロールできるという慢心
  • 地球規模な気候変動:蒸気機関から始まり、製造業の発展、科学に対する地球からのしっぺ返し

(*結びつけようと思えば、また挙げれば切りはないですが、一つの解釈としてお許しください。)

科学的分析手法は、結果を予測するために、原因を分析します。

しかし、原因があまりにも多様になったり、途中で環境や状況が変わってしまうと、同じような結果には当然なりませんよね。

この原因と結果の予測が、現代になる連れて、より難しくなってきたわけです。

現代は、人々の交流や文化的な衝突がモノの移動と情報の交流の加速によって、より活発化した時代とも言えます。

1990年代から本格化してきたインターネットの発展や、航海技術だけでなく航空輸送技術の発展も、そのカオスな環境を支えていると言えます。

こうして、出来上がったのが、予測不可能(VUCAな時代とも言われていますが)な時代、現代なわけです。

エフェクチュエーションはその時代を生み出した要因の一つである「科学的分析手法」に対する、もう一つの世界の見方なのです。

科学的分析手法の成り立ちについては、下記の本が参考になります。

哲学から科学がどのように分科したのかが理解できます。

古代ギリシャのソクラテスらの(自然)哲学は、【理性(ロゴス)的認識:比較衡量(分析的ロゴス=1.悟性)と、概括(総合的ロゴス=2.理性)、観想(テオーリア)的認識:観察・分解(3.感性)】の3つからなります。そのうちの1.悟性主義から、人間のための環境支配の科学の偏重が始まります。次に自然(科)学のヨーロッパでの分科・勃興と宗教信仰の低下(理神論など)が起こります。社会も支配できるという意味での社会科学も起こり、人文科学である哲学が弱くなり、そのまま科学の力で産業革命へ、列強の植民地主義へ、現在のVUCA時代という流れです。

ドイツの哲学者のヘーゲルの「どんな哲学も時代に拘束される」という言葉がありますが、宗教的な神を論駁した現代の自然科学への信頼が、哲学を科学的分析手法に拘束しているとも言えます。

「哲学は本来的に全宇宙の心理を探求するものである。これはソクラテスやプラトン以前のギリシャの自然哲学に端を発していた。そうしてソクラテス=プラトンによって、哲学が人間の探求を包含するようになったが、同時に宇宙の真理を探求するという哲学のコスモロジー(宇宙の起源に迫る)の伝統は変わることがなかった。プラトンの哲学はコスモロジーに依拠して、人間と社会を語っているところに見られる。しかし、近代になって新しい自然哲学とりわけ物理学が発展してくるにともなって、哲学はコスモロジーを物理学の成果に委ねざるを得なくなってきた。」

エフェクチュエーション(Effectuation)とは何か?

エフェクチュエーションが必要な理由は、この予測不可能な時代を切り拓く可能性を秘めたものだからです。

エフェクチュエーション(Effectuation)は、バージニア大学ダーデン経営大学院のサラス・サラスバシー教授(自身もベンチャーを5回創業している)が、研究を通じて発見した思考・行動様式です。

熟達した起業家(連続で事業を生み出している)が、どのように新しい事業を創り出すのか、シンクアラウド(think-aloud)法の分析を通して、起業家に共通する思考・行動様式(エフェクチュエーション)を洗い出したわけです。

エフェクチュエーションの重要な点は、起業家の思考・行動様式を洗い出し、起業を行う上で参考になるというだけではありません。

エフェクチュエーションは、科学的分析手法とは違い、未来を生み出す(事業を生み出す)思考・行動様式なので、予測不可能な環境を生き抜く上での必須の教養になる、ということです。

起業家の活動は、新しいビジネスを予測不能な環境下で組み立てることに他ならず(スモールビジネスや既に確立されたビジネスモデルは別)、その思考・行動様式は、予測不可能性を超克する可能性を秘めているのです。

予測不可能な時代で、科学的分析手法(これも重要)だけでは、未来を切り開けない現代だからこそ、学ぶ価値があるのです。

ただ、人間は即物的に理解し使えるノウハウのほうが興味を持ちやすいので、エフェクチュエーションと起業家の様式から理解してみましょう。

「手段」から始まる熟達した起業家の5つの原則

繰り返しになりますが、エフェクチュエーションは、未来を予測するというよりは、未来を作り出す行為になります。

エフェクチュエーションという言葉の仲間である、エフェクト(effect)が「結果」や「成し遂げる」という意味があるのも、それを表しています。

そして、サラス・サラスバシー教授が発見した、未来を創り出すための熟達した起業家に共通する5つの行動・思考の原則は下記の通りです。

  1. 手中の鳥の原則(bird in hands):今手元にあるリソースから始める
  2. クレイジーキルトの原則(crazy quilt): 協力してくれる人を増やす
  3. 許容可能な損失の原則(affordable loss): 許容可能な損失額を設定する
  4. 飛行の中のパイロットの原則(pilot in the plan):コントロール可能な部分に集中する
  5. レモネードの原則(lemonade):偶然の出来事を活用する

手中の鳥の原則

未来を作り出すために、エフェクチュエーションを使う熟達した起業家は「手段」からスタートする、ということが本書の随所で記載されます。

「手段」とは、下記のものを指します。

  • アイデンティティ:私は誰であるか?
  • 知識:私は何を知っているか?
  • ネットワーク:私は誰を知っているか

これらが「手段」として、起業家に使われる意味は、「自分の経験・知識・ネットワーク」こそが、未来を作り出すために有効であると、起業家は知っているからです。

「自分にしかない経験」や、「自分はこれがしたい」という内発的な動機は、未来を作り出すための活動のエンジンになるのです。

ネットで調べた情報や人から見聞きした情報を集めて予測するのを、起業家は嫌うのです。

また、本書では、熟達した起業家は、マーケットリサーチ(教科書的なサーベイ調査や潜在的需要を予測するアプローチ)を信用しない、という考察がサラス・サラスバシー教授からなされています。

クレイジーキルトの原則

熟達した起業家は、パッチワークのように作り出したい未来のための、仲間を増やします。

この時に重要なのは、自発的な関与者と協業することです。

自発的であるとは、熟達した起業家の未来に共感して、一緒に動ける、市場を作り出してくれる仲間です。

必ずしも会社的な仲間という意味に限定はされておらず、サプライチェーン上に存在する協業可能な他社であっても、仲間にしていくのです。

仲間を増やすことで、自分だけでやるよりかはリスクとコストを下げれます。

また、「未来」「市場」は、一人では存在しない(売買や価値提供は成り立たない)ので、パートナーシップが形成することには、必然的に仲間が必要なのです。

それが新しい市場に結実しますし、非常に少ないアイデアでも、勝てるアイデアになっていくのです。

許容可能な損失の原則

皆さん、起業家はリスクを取る人間だと思っていませんか?

しかし、熟達した起業家はリスクを嫌います。

それに関連して、本書では、熟達した起業家は、損失コストの敏感であることが書かれています。人間ですから、コストを損失するのは嫌ですよね。

他方で、「損失コストを許容すること」、すなわち「リスクの範囲を設定すること」にも敏感なのです。

熟達した起業家は、許容可能かつ損失可能な投資可能なコストを設定し、枠の中で(場合によっては小さく)始めるのです。(資金力のある投資家では、枠が大きすぎて小さいとは言えないかもしれませんが。)

熟達した起業家は、結果を予測するよりかは、結果を勝ち取るスタイルなので、その結果を生み出すためのリスクを決定し、実はリスクヘッジしているのです。

飛行機の中のパイロットの原則

今どきの飛行機は、自動制御機能があり、ある程度の予測をしながら飛ぶものではありますが、パイロットは必ず座っていますね。

それはなぜでしょうか。

自動制御の飛行機であっても、なんらかの不測の事態が起きた時に、パイロットがいないと目的地に到着できないということです。

熟達した起業家をパイロットに例えるならば、新規事業を展開していく中で、不測の事態が起きた時に、起業家はそれをコントロールするのです。

逆に、コントロールも出来ないことが予測できるような情報はあえて避けられます。

また、起業活動の中では、目標の利益や成果を達成するために必要なものにもコミットしないようです。

重要なことは、予測できないものを、目的地に向けてコントロールすることなのです。

レモネードの原則

レモネードの原則は、「酸っぱいレモンを掴まされたら、レモネードを作れ」という格言に呼応しています。

英語では、「If life gives you lemon,makes lemonade.」と表現されます。

意味は、「You should always make the best out of difficult situations.」です。

日本語で言うならば、「どんなに難しい状況でも、ベストを尽くせ。」となりますでしょうか。

熟達した起業家は、逆境に負けません。

「人によっては価値のない酸っぱいレモンしか持っていなくても、砂糖と水で、売れるレモネードに変えてしまう。」、そのように、逆境を利用するのです。

先程の「飛行機の中のパイロットの原則」で、熟達した起業家は、不測の事態を利用するということを書きましたが、この「酸っぱいレモンをレモネードにしてしまう」のがまさにそれを表しています。

パイロットだけでも、レモンだけでも、レモネードは作れませんが、熟達した起業家がパイロットとなり、酸っぱいレモンがそこにある時、レモネードを作ってしまうのです。

繰り返しになりますが、それはすなわち、不確実性を利用して、事業を伸ばすことに他なりません。

5つの原則と自殺の第4象限

おさらいになりますが、熟達した起業家は、「手段」から始めます。

起業家は銃を撃つときには、「準備して→狙って→撃って」という動きをしません。

準備して狙って狙ってでは、幸運と出会えないので、「撃って→撃って→撃って」という行動をします。

不測の事態や偶発性を、梃子(テコ)として利用することでコントロールして、幸運に変えてしまうのです。

このようなエフェクチュエーション・熟達した起業家の行動原則は、一般的な企業の事業計画からすると、受け入れがたい考え方ですよね。

大企業の場合は、不確実性を減らして、確実に目的を達成しようとするので、真逆の発想です。

大企業には真似しにくいことだからこそ、スタートアップや熟達した起業家が、大企業にも打ち勝つことができるのです。

また、熟達した起業家の原則には、「環境が等方性」であるという、原理があります。

「環境の等方性」とは、挑戦しないことには、状況がわからないことです。

事前に環境を知ることは出来ないのです。

「新規市場×新規の製品・サービス」を起業家が好むのは、予測できないからこそ、独占されていないという価値に魅力を感じているわけです。

この市場は、まだ誰も予測できない市場なので、自殺の第4象限と言われています。

この自殺の第4象限にこそ、飛行機の中のパイロットが必要です。

飛行機は自動制御である程度の予測をしながら飛ぶものではありますが、何か不測の事態が起きた際に、パイロットがそれに対応できるのです。

これがすなわち起業家の役割で、コントロール可能な部分への対応を行うことで、偶発性をコントロールする確立を高めていくのですね。

繰り返しになりますが、この「自殺の第4象限=新規市場×新規のサービス」の作り方は、起業家=パイロットだけでも作ることは出来ません。

それには、手元にある利用可能な協力者(手中の鳥と、クレイジーキルト)と一緒に、市場(レモネード)を作り出す活動になります。

新しい市場はそもそも存在しないので、同じ利益を狙えるプレイヤー(起業家とビジネスに関わるサプライヤーや事業協力者など)との活動で見つけていくものだそうです。

まだ市場は存在しないからこそ、特定の未来に対して、戦略的なパートナーシップを組んだチームで交渉しながら、一緒に目的地を決定していくことが重要なのです。

ビジネスの方向性と目的の形成は、手段の増加と形成によって制限され、固まってきます。

これらのプロセスの鍵は、「目の前の現実(課題や問題)=自殺の第4象限」を新しい代替案(市場・解決)へと変容(それまでの認識を変える)させてしまうことにあるのです。

下記は本書からの引用ですが、エフェクチュエーションの原則を理解すればこそ、意義深いと言わざるを得ないでしょう。

エフェクチュエーションは人間の行為が未来を作り、それが故に未来は合意のもとに行われる人間の行為によってコントロールされ、また創造されるという認識に根ざしている。熟達した起業家は今日この瞬間を分析するよりもパートナーシップ構築に焦点合わせることを圧倒的に好むということである。

エフェクチュエーションとコーゼーションの組み合わせ

ここまでは、エフェクチュエーションの解説をしてきましたが、エフェクチュエーションの対となる概念にコーゼーションがあります。

コーゼーション(Caution)は、「cause」が「原因」「理由」という意味通り、原因の推測からスタートする考え方です。

ちなみに、私が前提としてお話してきた科学的分析手法は、「コーゼーション(Causation)」の仲間になるかと思います。

コーゼーション(Causation)において、新しい事業や起業をする際には、徹底的な市場の分析(例:セグメンテーション・ターゲティング・ポジショニング)、すなわちMBA的なマーケティング理論を軸にした活動を行います。

しかし、現代では、市場規模を分析(PEST・SWOT・3C・STP・4P・4C)して実行した計画では、市場の環境要因も変化しますし、実際に現場に出てみると全く予測と違う結果が出ることもあるでしょう。

つまり、はじめからコーゼーションで新規事業を組み立てようとすると上手く行かないのです。

大企業で経験のある方であればご理解はあるかもしれませんが、新しい計画を立てるときには、市場規模がでかくないとお話になりません。

既存の事業のメインテインや改良にリソースも割きたい中、市場規模が小さかったり予測が立たない事業だと、決済できないですよね。

コーゼーションじゃないと社内に話が通らないわけですが、実はエフェクチュエーションのほうが、起業活動には向いている考えであれば、大企業が新規事業をするのが難しいわけです。

他方で、コーゼーションが使えないわけではなく、既存の事業の横展開や類似事業の拡大においては、予測の見通しを立てることが適切な行動につながるので、重要なのです。

熟達した起業家は、コーゼーションはエフェクチュエーションと同時に使いこなす。

繰り返しますが、本書では、コーゼーションを使えない考えとして断じているわけではありません。

反対に言えば、エフェクチュエーションだけで上手くいくとも言えないということです。

本書では、「カーマックス」というビジネスの事例で、最初はエフェクチュエーションが支配的だったが、ビジネスの成長につれて、エフェクチュエーションとの組み合わせが増えてきていると言う事例もありました。

やはり、エフェクチュエーションが、未来が予測不可能な場面では一定の働きを果たすと言うことであり、コーゼーションの活用も同時に重要であると言うことを示しているのです。

ただ、ここで問題になるのは、我々はコーゼーションに慣れてしまっているので、エフェクチュエーションを「分析しない行為」として誤解し、習得する意味の理解が容易ではないことです。

しかし、コーゼーションは、何を選択するかであり、エフェクチュエーションは何を設計するか、ということなのです。2つは矛盾しないのです。

エフェクチュエーションは、「情熱は全てに先立つ」ではない、という注意書きが本書にある通り、エフェクチュエーションにも、しっかりとした論理があります。

エフェクチュエーションは、「自分が何をしたいのか、手元にあるリソースはなにか、どんな人と協力できるのか、どこまで損失できるのか、偶発性を利用して、積極的に未来をコントロールする」論理なのです。

科学的分析手法に傾倒してしまった現代だからこそ、エフェクチュエーション(内省の哲学)が重要なのです。

エフェクチュエーションの有効性

まだまだ、コーゼーションに慣れきった我々には、そうは言ってもなかなかエフェクチュエーションの有用性を理解できません。

本書において、エフェクチュエーションの有効性をいくつかの観点から考察をしていますのでご紹介してみます。

技術革新と新規事業の関係

「技術(テック)から新規事業は生まれない」という言説を耳にされた方も多いでしょう。

他方で、学者の先生方としては研究や技術革新に対する自信が高く、それ自体で産業に結びつく可能性を考えていることも多いでしょう。

サラスバシーのエフェクチュエーションでは、下記のような考察があります。

「技術の歴史は、同様の事例、つまり【当初は、ほとんど、あるいは全く価値がない】と思われていた資源や技術の物語で満ちている。われわれは、資源や技術が、時間と共に有用性を帯びていく、文脈依存的で行為者中心的な道程を、事前に予測することはできない。」

また、技術が価値を発揮するためには、「外適応」が必要だとも考察されています。

「外適応」とは、すなわち技術を、社会の課題や個人の問題に照らし合わせて、使える形に変更させていく(これがエフェクチュエーション)ことです。

釘を打つハンマーに色々な形状なハンマーがあるように、道具は使う人に応じて、外適応しないと、使い物にならないのです。

研究や技術はそれ自体では、事業にならないということです。

エフェクチュエーションは、技術や研究を「外適応」させるために、有効な活動だということです。

逆説的にテックこそ、エフェクチュエーションが必要なのです。

パイロットこそ重要なのです。

エフェクチュエーションの論理の定量評価

まだまだ、エフェクチュエーションの論理はなんとなく理解できたが、コーゼーションに慣れきった会社で導入するのはなんともハードルが高いかもしれません。

例えば、OKR・KPI的にエフェクチュエーションの成果を図れるのであれば、少しずつはじめてみるのも面白いですよね。

定量的な話で言えば、本書では、投資とエフェクチュエーションの原則の関係性の話も載っています。

VC(ベンチャーキャピタル)がスタートアップに投資する際にも、エフェクチュエーションにおける熟達した起業家の5原則と投資リターンの相関があるようです。

特に予測の効かないアーリーステージでは、投資先に「予測を重視した行動する企業」を好んで投資するVCは失敗するそうです。

なぜならば、少ないリソースで正解とはわからない道に突き進んでしまうので、ピボットが効かずに事業失敗するケースがあるからです。

予測せずに偶発性をテコにできる起業家は予測の失敗を回避できるので、こういったスタートアップの起業家を好むVCのほうがアーリーでは良い結果を残す可能性があるそうです。

このような事例はありながらも、自社に導入する際には、下記の画像のようなインプット→意思決定のアプローチ→アウトプットの評価をしてみるのも興味深く思います。

エフェクチュエーションが定量的に証明された世界では、我々はもっと積極的に「市場」を創り出すことができるかもしれません。

起業家は生み出すことができるのか?

熟達した起業家の5つの原則を知っていれば、起業家になれるわけでは当然ながら、そうではありません。

エフェクチュエーションでは、熟達した起業家の共通項だけではなく、起業家がどのように生まれ、どのような価値観を持ち、どのような未来を目指すのか、という点についても興味深い見解があります。

いかにして起業家になるのか?

さて、まずは人々はどうして起業家になってしまうのでしょうか?

後天的になることができるのか?先天的なのか?

起業家になってしまう人間は、いくつかわかっていることがあるそうです。

習慣

みなさんも聞いたことがあるかもしれませんが、「親が起業家」だと、子供もなりやすいそうです。

これはすなわち、起業家になるのは、習慣や文化が影響することを示します。

他にも「親から事業を継承する必要がある」とか、カースト制度のあるインドのような伝統的社会では、「代々、起業家」というケースもあるそうです。

必要性

また、習慣以外にも、必要に迫られての起業もあります。

自分の仕事がクビになったり、定年退職したり、犯罪の前科によって就職できず起業せざるを得なかったり。

インセンティブ

起業にメリットを感じて、起業するケースもあります。

政府によって、起業が国家的に推進されたり、通っていたビジネススクールで起業を推進されたり、キャリアとして起業をしてみたり。

承認欲求

また、承認欲求的に「社会に何かしたい」と、起業することもあります。

例えば、金持ちが起業することがありますが、これは、金銭的に欲求が満たされると社会に対してギブしたくなる事があるからだそうです。

自己実現

承認欲求による起業もあれば、自己実現による起業もありますね。

例えば、大きな不幸に見舞われたような原体験を持っている人や、飲酒運転で子供を失っている人、虐待を受けていた人などです。

これらは、社会問題を解決したいと思って起業する人で、ソーシャルアントレプレナーとか言われますね。

起業の機会と現実的な努力

上記のように、起業家になる方法は色々ありますが、結局は機会に気づくか、機会を求められるかどうか、なのかもしれません。

起業家が優れているかどうかというのは文脈にもよるので、なんとも言えませんが、起業家になれる人間がいる以上、なりたいのであれば、挑戦できるものです。

ただ、起業とは、多くの起業家が言うように辛く厳しいものなのです。

当然ながら市場メカニズムには何ら自動的あるいは自然発生的なもの存在しないこと、そしてあらゆる人間による人工物を紡ぎ出す、間主観的な取り組みと同じように市場を作ることには、現実的な努力が必要である事を解いたのは、私が最初ではない。

上記の引用にあるように、起業家の活動は間主観的(AさんとBさんが共に認識を作り上げること)なものになるので、人を動かし、市場を創るための努力が求められるのは言うまでもありません。

「われわれは、いつも失敗している。重要なことは、成功はプロセスであり成果ではない、という点だ。そして、失敗はそのプロセスに不可欠なインプットである、と知ることだ。」

熟達した起業家は、「一つの重大なビジョンの達成を成果」だとすれば、成果のために「難題をクリアしていくことが成功」で、その「成功を支えるのが失敗」と捉えていきます。

上記の引用のように、起業家は失敗を失敗と思わずに挑戦し続けるマインドセットが求められます。

失敗なんてない、成功もない、あるのは常に新しい目的だけだそうです。

市場は人工物であり、勝手には出来ないからこそ、起業家には能力以上に、「私は何者で、私は何を知っていて、私は誰を知っているのか」という内発的な経験と手段に全力投球できる必要があるのです。

かの起業家たちは(エフェクチュエーションに基づいていようといまいと)、彼らが事業を行う環境を再形成しようと努力し成功した。それは彼らの伝記・歴史が証明していることである。エジソンが電球を作り出した時、「市場」がそれを買い求めようと彼に殺到したわけではなかった。彼は銀行家、法律家、政治家を説得し、彼らを教育し、丸め込み、ときには踏み越えなければならなかった。彼は、自らと従業員と宣教師・活動家に仕立て上げ、熱と光を分離することを悪魔的所業とする人々に立ち向かわなければならなかった。

起業家が創り出す「市場の可能性」の意義

サラス・サラスバシー教授は、「人々の希望の中に存在する市場」という章で、次の問題意識を提起します。

それは、環境問題や紛争などの人間の危機の解決を志向するNGOやNPOにも投資できて良いはずである、という問題意識です。

ベンチャーが株式で資金を調達するように、NPOやNGOだってしたっていいということです。

株式で投資ができれば、公開株式市場において競合のモデルと分析することや、投資の効果のモニタリングも可能になります。

また、寄付は使われてなくなるだけですが、株式は市場では株価の急騰や暴落はあれど、資金の現金化や余裕資金の再投資を市場・株主間で行うことだってできます。

お金を返してもらうときだって、株式を他の投資家に売ればいいだけです。

しかし、現実は非営利団体に寄付はできても、投資ができる環境は整備されていないのです。

他方で、株主として投資に値するような素晴らしい非営利ベンチャーの事例として、ユヌスのグラミン銀行が挙げられていますし、社会的にインパクトのある団体は多くあるでしょう。

一見、経済原理に反した理想論に聞こえるパートではありますが、環境権取引のように、非営利的な市場であっても、新しい仕組みができる可能性があるのです。

つまり、エフェクチュエーションの論理=起業家の創り出す市場には、限界がないのかもしれません。

これは、コーゼーション的には考えられない発想ですし、「何をお花畑なことを言っているんだ」と思う方もいるでしょう。

しかし、起業家が市場を創り出すように、今後もいままで考えられていなかった市場は、原理原則がいい意味でも悪い意味でも歪められて、できる可能性があります。

言い換えれば、人工物としての市場がまだ形成されていないだけで、これから形成されうるし、形成されていないことが、存在の否定にはならないということです。

市場がなくても、それを実現したい意思さえあれば、エフェクチュエーション的には可能ということなのです。

これこそが、「人々の希望の中に存在する市場」なのです。

あなたは「エフェクチュエーション」を通して、何を見るか?

本書は、終わりの部分で、「エフェクチュエーション」の価値について研究の可能性について筆者が問い掛ける場面があります。

「この学問では、エフェクチュエーションという考え方はどのように使えるか?価値があるか?」

エフェクチュエーションは、「起業家の共通原則・研究」として、理解することもできると思います。

しかし、サラス・サラスバシー教授が本書の端々で、エフェクチュエーションの可能性について論じています。

つまり、本書の問題提起は、エフェクチュエーションという概念を通して、世界を見ると、その世界はどう映るのかということを読者に問いかけるものだと感じています。

あなたの世界は、エフェクチュエーション(ある種の観念論=イデアリズム)によってどのような世界に映りますか?

科学的分析手法やコーゼーション(ある種の唯物論=マテリアリズム)など、我々には知らず知らずのうちに世界を見るレンズが固定されてしまっているのは言うまでもありません。

今までのレンズを変えることによって、パラダイムシフトを起こす、すなわち世界の見方を変えていきましょう。

アマルティア・センは、自由とは決められた目的のために、より便利に達成できる手段を得ることだけではなく、個人が自分の目的を作り上げ、それに従うことの自由を含まなければならないと主張する。自由な考え方は開発の目的と手段にとっての中心でなければならない。この考え方に従えば人間とは機会を与えられれば自らの運命の形成に積極的に関与するものとみなければならない。巧みな開発政策がもたらす、成果の単なる従順な受け手ばかり見てはならないのである。

アマルティア・センは、貧困の原因が従来までは生産性のためだと考えられていたところを、商品へのアクセス機会や、通貨の獲得の平等等の観点から再定義した偉人であります。

ここでの主張はサラス・サラスバシー教授が、エフェクチュエーション的なアプローチの価値を、「人間の自由と機会の平等」から考察し、「人間の未来を切り開く力」の可能性を示唆していると感じます。

我々は、ミクロ的でも、マクロ的にでも経済原理の中でもモジュールの一部あり、意味を成さない粒の一つではなく、「未来を切り開く存在」なのでは、という可能性です。

アントレプレナーシップは到達点なのか、それとも方法なのか興味深い疑問が存在する。それは多様な文化的状況の中で合意された経済的成果を達成するために、新しい手段を発明することなのか。それともそれは既知の文化的経済的状況についての考えを変換する経済的かどうかにかかわらず、新しい目的の発明を含むものなのだろうか。私はこの点について自身の立場を極めて明確にしてきたと思う。本書ではアントレプレナーシップを一つの道具や一つの到達点としてではなく、科学と同じような方法として見なすべきことを訴えてきた。それは多様な貢献を生み出す可能性のある、より広汎な人々に享受され、学習される論理を持つプロセスである。

本書の素晴らしいポイントは、アントレプレナーの分析から入り(ある意味、ノウハウとしての消化がしやすい)、それを帰納的に、人間の可能性の論理まで価値を昇華している点だと、最後の方は感動を覚えてしまいます。

サラス・サラスバシー教授の重厚な一冊ではありますが、ぜひ一読してみて、あなたなりの「エフェクチュエーションによる”世界”の見方・変え方」を探してみて下さい。

書評や要約や感想からだけでは、味わえない体験としての読書の深みがあります。

同様に、われわれはアントレプレナーシップを目的の達成・変換・喪失をするために、人間の性質を解き放つための方法として再概念化するだろう。エフェクチュエーションの論理を明らかにすることがこうした再概念化に役立つ1歩となることを願っている。

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