【感想】「家族を想うとき」から、「構造的」な暴力と貧困を考える。【2019おすすめ映画】
こんにちは、外資系セールスから転職→現在はベンチャー企業にて起業家を支援している冨田到(@ItaruTomita9779)です。
ケン・ローチ監督の最新作「家族を想うとき」という映画を見ました。
「家族を想うとき」は、GAFAが生み出す格差を代表に、現代社会の貧困や家族の悩みを考えさせる映画で、かなりおすすめです。
皆さん、家族と対立したり、電車で知らないおじさんに突っかかられたり、会社で辛い目にあったり、社会でうまく行かないことって多いですよね。
そんな「なぜかうまく物事が運ばない」ときに、この映画の学び「構造的な暴力」が勉強になります。
今回は、「家族を想うとき」の考察と感想を書きながら、「思うように行かない」という状況に対する「構造の分析」の重要性を学びたいと思います。
2016年カンヌ国際映画祭でパルムドールに輝き、日本でも大ヒットを記録した『わたしは、ダニエル・ブレイク』。この傑作を最後に、一度は表舞台から降りたケン・ローチ監督。だが、同作のリサーチ中に社会の底辺で目の当たりにした〈現実〉が彼の心の中に生き続け、いつしか〈別のテーマ〉として立ち上がり、どうしても撮らなければならないという使命へと駆り立てた。引退表明を撤回した名匠が最新作で描いたのは、グローバル経済が加速している〈今〉、世界のあちこちで起きている〈働き方問題〉と、急激な時代の変化に翻弄される〈現代家族の姿〉だ。2019年のカンヌ国際映画祭では、「私たちがやらねばならないことはひとつ。耐えられないことがあれば、変えること。今こそ変化の時だ」という、公式上映後のケン・ローチ監督のスピーチがさらなる拍手を呼んだ感動作が、ようやく日本にもやって来る。
【要約】「家族を想うとき」の内容とは
「家族を想うとき」、皆さんにも見ていただきたいのですが、見ていない方向けに簡単に内容を共有します。
「家族を想うとき」は、イギリスの映画で、4人家族を中心に物語が回ります。
父親のリッキーはフランチャイズの配送オーナー、母のアビーは介護士、息子のセブは非行しがちな高校生、娘のライザは家族思いの小学生くらいの子です。
4人の家族は仲が良いときもあれば、喧嘩をすることもある、そんなありふれた家族です。
しかし、父親のリッキーがフランチャイズの配送オーナーになってから、物語は一気に変化していきます。
リッキーは「自営業・フリーランス・オーナー」という形で、仕事を引き受けたわけですが、休みは週一回で労働時間も7時21時と非常に厳しい環境でした。
また、母のアビーも子育て・家事と介護士の仕事で、非常に忙しく、家族の間でも、そのストレスで喧嘩が絶えなくなります。
ストレスの溜まった娘のライザは不眠症で、息子のセブは街中に仲間とグラフィティ=落書きをする始末。
それぞれの視点で見ると、みんなが何かしら悩んでいて、家族のために想ってはいるのに、すれ違う。
誰が悪いわけではないのに、なぜかうまく行かない。
(しかもみんなが今に精一杯で、根本的に何が悪いのか?考察する暇がない!)
しかし、私達が映画というスコープでこの家族の状況を冷静に見てみると、一つの背景要因が浮かび上がってきます。
グローバル経済が加速している〈今〉、世界のあちこちで起きている〈働き方問題〉と、急激な時代の変化に翻弄される〈現代家族の姿〉だ。
上記のように公式HPに書いてあるように、その背景とは、最近流行りの通販(アマゾン)のフランチャイズや、高齢化問題(訪問介護)、それを「円滑」にしてしまうスマートフォン(Apple)です。
この一連の「ギグ・エコノミー」が構造的な暴力として存在し、「家族を想うとき」の家族たちの崩壊と再生を繰り返していきます。
家族の衝突の背景にある構造的な暴力「ギグ・エコノミー」
そう、この映画が伝えたいことは、「家族で仲良くしましょう」なんていうメッセージではないのです。
伝えたいメッセージは、我々の行動や社会を動かす「構造」に気づきましょう、ということだと私は個人的に思います。
「家族を想うとき」における「構造」が、「ギグ・エコノミー」なのです。
「ギグ・エコノミー」とはなにか、下記の引用をもとにおさらいしましょう。
「ギグ・エコノミー」とは、インターネットを通じて単発の仕事を請け負う働き方のこと。「ギグ(gig)」は英語のスラングで、ライブハウスでの短いセッションや、クラブでの一度限りの演奏のことを言います。クラウドソーシングで商品デザインを受注したり、オンライン配車サービスの運転手となったり、インターネットサービスの多様化に伴い、個人の働き方にも変化がみられています。
インターネットやスマートフォンが普及し、便利になった他方で、厳しい現実があることをこの映画は突きつけます。
父親のリッキーは間違いなく、Amazonの配送が便利になった側面にあるフランチャイズ配送オーナーです。
母親のアビーの介護の仕事もスマホに電話一本で捕まってしまいますし、息子のセブは不良仲間とiPhoneで即座に繋がります。
もちろん、だからと言ってAmazonを使いことはやめましょうだとか、スマートフォンは悪だ、なんてことを言い出すと思考停止になってしまいます。
大事なことは、我々が享受する利便性の裏側に、貧困にあえぎ、ギグ・エコノミーを中心とした「構造」を支える人間がいるということです。
そして、この貧困に陥る可能性は誰にでもあり、そこから這い上がることや、その「構造的な暴力(社会にビルトインされている)」に気づくことの難しさも教えてくれます。
「家族を想うとき」でも、全員がその構造に気づくことはなかなかできていませんし、現実は目の前に必死で、ついつい主観的になってしまうものです。
昨今では、Twitter上でも「会社員はオワコン」、「フリーランス最高」、なんて言説も聞こえますが、良い側面だけでないことは、よくよく理解しないといけませんね。
GAFAの利便性と社会に潜む「構造的な暴力」
「家族を想うとき」から、GAFAの闇と、それがもたらす社会に組み込まれた構造的な暴力の存在の示唆を学べます。
「家族を想うとき」では、示唆深くiPhoneの着信音が、淡々と流されます。
まるで、自分たちの生活の中で、違和感がないように溶け込みつつも、影響をしっかり及ぼしている様を描写するかのようです。
そして、この構造的な暴力と、合わさって厄介なのが、政府の福祉政策の縮小と不便さでしょうか。
「家族を想うとき」では、病院のシーンが多く出てきます。
その病院のシーンでは、主人公たちのような貧困にあえぐ人から、幸せそうな子供まで、なめるようなカメラワークで移していきます。
また、主人公が病院のサービスの遅さに対して、「こんなに遅いと配送に遅れてしまう」と怒るんです。
GAFAのスピーディーさに対して、病院の行政サービスの遅さと不便さとの対比が印象的なシーンです。
本来は、我々の税金をこのような貧困者に対して、救済のために使われるべきですが、先進国で福祉が豊かでない国ではパワーを持つものにより税金が使われる事実があります。
「富める者は富み、貧ずればより貧ず」、これが社会と経済の現実で、日本も例外にもれずなのです。
経済的な格差が生まれ、セーフティネットが貧弱な中、人々の社会の影に構造的な暴力が生まれるのです。
GAFAの中でも、GoogleとFacebookが政治に入り込む弊害もあります。下記の記事をご参考ください。
「家族を想うとき」を見ることで、それを理解し立ち向かう気概を持ちたいと、想った感想でした。
また、自分が他人と衝突するときや、ストレスが溜まってしまうときに、目の前の人間に怒るのは、簡単でしょう。
しかし、ふと冷静に「自分をそうさせているのは、何が要因なのか?」と引いてみることで、「家族を想うとき」の家族たちのような衝突・陥穽を避けることもできるかもしれません。
あなたも、ケン・ローチ監督の懇親の一作、「家族を想うとき」を見て、社会の構造に目を向けてみませんか?
GAFAは世界を飛躍的に便利にしてくれました。
他方で、それが生み出すギグ・エコノミーの負の側面に光を当てたのが、ケン・ローチ監督の「家族を想うとき」です。
社会を考える切っ掛けをくれる最高の映画です。
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